働くことはシンプルに考えれば、生計をたてて暮らしていくための手段ですが
「自分はなんのために働くのか?」
「この仕事に意味はあるのか?」
といったことを考え出すと、けっこうつらい感じになってくると思います。
この記事の内容
- 「仕事」の意味、「働く」意味について確認
- 働くことに意味の意味を感じなくなるのはどんな時
- 働く意味を感じなくなったときのおすすめ考え方
といった流れで、解説します。
我々一般庶民にとって、働くことは生活の大部分を占めています。
- 大きなミスをしてしまった
- 繰り返しの毎日
- キラキラ働く友人の姿をみた
- 遊びまくっている友達をみた
などなど、ちょっとしたことがきっかけで、自分の毎日の仕事に疑問を持つようになったり、「そもそも働くとは何ぞや」みたいな状態に陥ってしまうことは誰しもあるものです。
極論、すべては自分の捉え方次第で、現状を変えなくても心穏やかに過ごすことができるようになります。
何のために働くのか
なんのために働くのか、一歩引いて客観的な視点で、働くことの位置づけをおさらいしてみましょう。
めちゃくちゃ大雑把に考えてみましょう。
原始時代、狩猟採集時代
原始、狩猟採集の時代です。毎日の食料を確保するために、狩りをして暮らしていました。
原始時代では、職業といった言葉すら存在しないはずですが、食料や寝床を自分で確保しなければ生きていくことはできませんので、「働くこと」=「生きること」が直結しています。
こんな状況で
「一体何のために働くんだろう?」みたいなことを考えることもないでしょう。
農耕時代
田んぼや畑で農業をするようになった時代です。
この時代でも基本的に「食うために働く」が基本スタイルですが、原始時代と違って食料を保存して溜め込むことができるようになりました。
米をたくさん溜め込むことができるようになった人や、米がたくさん育つ良い土地を管理していた人は、裕福になり、そうでないひとは「貧乏になる」といった流れで、「貧富の差」が生まれるようになります。
この「貧富の差」がどんどん拡大して
- 田んぼや畑を管理して、人を雇って働かせる人
- 桑などのを作る職人
- 耕す専門の人
など、身分と役割分担も進んで、なかには対して働く必要のない人も出てきたりして、ここで初めて「仕事」=「生きること」の構図が成り立たなくなっっていったと考えられます。
産業革命〜現代
時代が進めば、どんどん分業制が進み、今でいう「仕事」=「職業」といった感じになります。
車や食べ物を作るための「組織」が存在し
「組織」に属する人は、そこで労働する対価として「お金」が得られ、そのお金で日々の生計を立てる。
「働くこと」と「生きること」は関節的に繋がっていますが、お金が大量にあれば働かなくても生きていけます。
この状況では「働くこと」≠「生きること」なので、働くことに意味を感じにくくなります。
働くことに意味の意味を感じなくなるのはどんな時
どんな状況のときに、働くことに意味を感じなくなるのか考えてみましょう。
人によって様々だと思いますが、大抵は次のようなものが多いはずです。
給料が低い
体を粉にして、頑張って働いているのに、全然給料が低くて、最低限の生活しかできなくて
「普通に生活するのがやっと、、、自分の好きなこともできないし、将来に対して何の夢も抱けない」
といった状況の場合。
「いったい俺は、何のためにこんなに働いているんだ、、、、、」
といった感情を持ちやすくなるでしょう。
いつも同じことの繰り返し
いつもきまりきった仕事ばかりしている場合、その業務に新鮮味やいい意味の緊張を感じなくなり、結果的に飽きてしまい
「果たして同じようなことを毎日のように繰り返すことに何の意味があるだろうか?」
といった疑問を抱くようになってしまいます。
仕事が過酷すぎる
やりがいのある仕事をしていたり、責任のある仕事をしている人に多いかもしれませんが、仕事がハードだったり、責任が大きすぎて、労働時間が極度に長かったりなど
休日だって常に仕事のことを考え続けなければならないといった状況がずっと続くような場合
ふと公園で無邪気に遊ぶ子供たちなどを見かけた際など
「そういえば、俺ってなんでこんなにがんばってんだっけ」
みたいな感覚を覚えることがあります。
思い通りに行かないことばかりのとき
環境がブラックであったり、人間関係が劣悪であったり、無能な上司の下についていて、我慢できない範囲で思い通りにならない状況ばかりが続くとき
「あー!全然思い通りにならねえ、嫌になったわ」
みたいな感情を抱くことは誰だってあるでしょう。
さらに高いレベルを求めるようになった。
いつもの仕事にある程度慣れてくると、自己実現の為にスキルアップしてみたくなったり、もっと社会貢献ややりがいを実感できるような仕事をしてたくなったりと、仕事の中にプラスアルファの要素を求めるようになってくることがあります。
そうしたときに、自分の要望にあった仕事があればいいですが
現実はなかなかうまくいかないもので、今まで通りの仕事や雑務ばかりに追われる現実がつづきます。
そんな理想と現実のギャップに
「俺はこんな意味を感じない仕事をしたくない」
といいった感情に満たされてしまうでしょう。
他にやりたいことややるべきことが増えた
仕事自体に特に不満がない場合でも
- 家族が増えて、家に早く帰りたくなった。帰る必要がある
- 没頭する趣味を見つけて、仕事に時間を割かれるのが惜しい
などなど、仕事よりも大事ななにかに時間を使いたくなったときに
「そもそもなんでこんなに仕事に時間を割かれてるんだろう。」
といった疑問を抱くようになったりすることもあります。
とてもやりがいを持って働いている知人や友人を見た
SNSや同窓会で、親しい友人や知人がとてもやりがいのある仕事に打ち込んでいて、キラキラしているのを見たとき、当然ながら自分と比較してしまうことは誰にでもあることだと思います。
「アイツと比べたら、俺は毎日、意味のないことばっかりやってんな、もっと意味のある、社会に貢献できることがしたいな、、」
といった感情は、旧友と再開したりSNSを除いたりしたときに何度も感じたことのある感情です。
こんな感じで
- 過酷すぎたり
- 全く面白みのない仕事をしていたり
- そこそこの仕事をしていても更に大きな意味や意義を仕事に求めだしたとき
現在の仕事に対して意味を感じなくなって来ます。
働く意味を感じなくなったときのおすすめの考え方
ここからは、働く意味を感じなくなったときにおすすめの考え方を紹介していきます。 以下の考え方を身に着けていれば、随分と楽になるはずです。
あくまでもベースは生計を立てるための手段とかんがえる
まず考えるべきは、「仕事は生計を立てるための手段」ということです。
当然のことですが、給料をベースに生活をしているのなら、その給料がなくなれば生活は立ち行かなくなります。
別の仕事でも生計を建てれるかもしれませんが、莫大な貯金がない一般市民は何かしらの方法で生活資金を確保しながら生きていくしかないのです。
生きていくために必要なお金を確保するのは、原始時代でいえば狩りにいって獲物を捕まえて、火を起こして寝床を確保する行為と同等です。
生きていくベースを作るための活動です。
なにか特別な意味を求めたり、生活のために働かなければならないのを嘆いたりする必要はありません。
「生計を立てる為の手段」というベースを忘れないようにしましょう。
やりがいや生きがいを仕事に求めすぎない
「やりがい」や「生きがい」みたいなものを仕事の中に求めすぎていないか、今一度確認してみてください。
なぜなら、やりがいがあることを前提にしていた場合、やりがいがあるうちはいいですが、やりがいがない仕事になった場合に、常になにか満たされない、ツラい状況に陥ってしまう可能性が高いからです。
会社はあなたにやりがいを与えるためにある組織ではありません。
所詮は資本主義の世の中で、利益を上げることを目的とした活動体に過ぎません。
そう考えてみると、自分が望むような仕事ばかりを任されることはただのラッキーと考えたほうが自然でしょう。
仮に仕事の一部に自分が好きな部分があったとしても、その好きな部分をこなす周りには、書類の整理だったり、関係者との調整や、聞き分けのない上司の説得であったりと、多くの「楽しくない業務」がくっついていて、それをこなさなければいけないません。
仕事に意味を感じなくなったとき、「やりがい」や「生きがい」を無意識に求めすぎていないか、今一度、振り返ってみてください。
そもそも仕事は会社のためにある
「そもそも会社の仕事は会社の活動のためにある」と考えてみることもおすすめです。
会社の中で発生するすべての仕事は個人のためでなく
「会社が利益を上げて存続するために存在している」
と割り切って考えることができれば、個人的な働く意味などを求めることもなくなります。
ただ書類を整理して保存するだけの業務であっても、会社としては業務に関連する書類をしっかり保存しておく必要があったり、そこに何かしらの「意味」があるから業務が残っているのです。
その「意味」を突き止めるのできないかもしれませんが、何かしらの理由で会社にとっては必要な仕事ということです。
「そもそも仕事は会社のためにある」と思うことができれば、自分の仕事に意味を感じなくてもちょっと安心した気持ちになります。
個人の視点で意味があるかないかを判別することは難しい
そもそもやってる仕事に「意味があるか」「意味がないか」を個人の視点から判別できるのか?ということを考えてみるといいかもしれません。
一見地味で意味のないと思える業務だって、回り回って必要不可欠な業務である可能性だってありますし、重要な案件を進めるための目立つ業務だって、実は存在しなくても、だれも困らないような業務だったりするかもしれません。
- 「会社に届いた書類を各部署に振り分ける」という誰でのできそうな業務があったとして、その業務を誰もやらなくなったら、取引先との重量な書類のやり取りが成立しない可能性があります。
- 年間数億円の売上を狙った新規事業のプレゼンが成功しなくても、実は5年先の数億円の失敗を免れただけかもしれません。
こんな感じで、目立っていたり、ぱっと見意味のありそうな仕事は「意味のある仕事」だと判定してしまいがちですが、視点を変えてみれば全く意味がなかったり・マイナスだったりする可能性だってあります。
その仕事が「良いか・悪いか」「意味があるか、ないか」
をあなたやわたしの個人が判別することは、どんなに優れたひとであっても難しい
こんな視点を持つことができていれば、あなたが自分の仕事に意味がないのではないかと悩んだときの手助けになるはずです。
意味のないと思えることだって淡々とやっていく「無我の境地」スタイルを目指して見る
個人の視点から「意味がある・意味がない」を判別するのが難しいということに納得できたら
次は「意味なくない?」と思える仕事であっても「大義がある?」と思える仕事であっても、いちいち判別することなく、淡々とこなしていく境地を目指してみてください。
あれこれ判定せずにこなすことができるようになれば、迷いや憂いはなくなり、仕事の内容に一喜一憂することがなくなり、メンタルや体力を消費せずにすみます。
そうすれば、仕事に振り回される感覚も減ります。
これはいわば、悟りの境地を目指すようなもの です。
この考え方は仕事だけでなく、日常生活のありとあらゆる場面に使える最強のスタイルです。
無我の境地に少し近づくだけで、日々メンタルや体力をすり減らすことなく、淡々と心穏やかに日常を過ごすことができるようになります。
自分なりに自由に目的ややりがいを後付けすればよい
仕事に意味が感じなくても、自分で何とか意味を勝手に作り出していくことを考えてみてください。
どんな仕事だったとしても「勝手に、自分軸で、自由に仕事に対する意味・意義」みたいなものを後付けしてしまって、思い込んでしまうことが出来ればいいのです。
ただの退屈な入力業務なら、効率よくタイピングを練習するためのゲームだ捉えてもいいし、 やりたい仕事ができないことをただ嘆くよりも、目の前にある「とりあえずやらなければならない仕事」でも自分で意味ややりがいを見出すことの方がよっぽど現実的な答えではないでしょうか?
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